【ルカ7:36〜7:50】
クリスチャンはどうあるべきか?
クリスチャンはどの様に生きて行くべきだろうか?
『毎日聖書を読む事』だろうか?
『毎週教会に行く事』だろうか?
それとも『積極的に伝道活動をしたり、教会の奉仕をする事』だろうか?
勿論これらは全て素晴らしい事で、『目指すべき事』だろう。
しかし一方で、皆がこれらの事を出来るわけではないだろう。
人によっては他のクリスチャンの生き方を見て、
『自分はあんなに立派じゃない』と負い目を感じているかもしれない。
最近私は『自分には関係ない』と思っていた失敗や罪を経験している。
時に『本当に自分はクリスチャンなのだろうか?』と思ってしまうほどである。
今日は貴方と、『クリスチャンの生活はどうあるべきか』について学んでいきたいと思う。
バプテスマと恵の人生への感謝
最近娘が自身の希望によりバプテスマを受けた。
これは私にとっても計られた様なタイミングであった。
娘のバプテスマの日の前日に、娘と聖書を開いてバプテスマについてと、信仰生活について学んで、初心を思い出した気がする。
バプテスマとは『イエスが我々の罪を贖ってくださった』と言う事を信じる宣言である。
そこからの人生は『神からの恵』の人生に突入する。
神からの恵は罪の赦しである。
バプテスマ以前は『裁き』である。
裁きの人生は侵した罪が許されず、その罪によって裁かれる。
しかしバプテスマ以降の人生は『恵』であり、
恵みの人生は侵した罪が許され、永遠の命(所謂天国行き)を得られる。
なに?
『そんなのずるい?』
『そんなの都合良すぎる?』
勘がいい。その通り。
信じてバプテスマを受けただけで、恵を受けることが出来るのだから。
そう。だから我々は神に感謝するべきなのである。
自分の人生を振り返っても、本当に多くの罪がある。
私は昔から勢いがあるタイプなので、特に目立つ。
高慢で好戦的、皮肉が大好きで口も非常に悪い。
すぐに行動に起こすので、完全に台風の目となる人間である。
一言で言うとトラブルメーカーだ。
クリスチャンじゃない人よりも、ずっと罪人の様に見えるタイプだ。
しかし私は許されている。
何故なら神の恵を受けているからだ。
ずるいよな?
そう。ずるい。
でも、信じたから神から一方的に恵を受けた。
最近娘が自身の希望によりバプテスマを受けた。
これは私にとっても計られた様なタイミングであった。
娘のバプテスマの日の前日に、娘と聖書を開いてバプテスマについてと、信仰生活について学んで、初心を思い出した気がする。
バプテスマとは『イエスが我々の罪を贖ってくださった』と言う事を信じる宣言である。
そこからの人生は『神からの恵』の人生に突入する。
神からの恵は罪の赦しである。
バプテスマ以前は『裁き』である。
裁きの人生は侵した罪が許されず、その罪によって裁かれる。
しかしバプテスマ以降の人生は『恵』であり、
恵みの人生は侵した罪が許され、永遠の命(所謂天国行き)を得られる。
なに?
『そんなのずるい?』
『そんなの都合良すぎる?』
勘がいい。その通り。
信じてバプテスマを受けただけで、恵を受けることが出来るのだから。
そう。だから我々は神に感謝するべきなのである。
自分の人生を振り返っても、本当に多くの罪がある。
私は昔から勢いがあるタイプなので、特に目立つ。
高慢で好戦的、皮肉が大好きで口も非常に悪い。
すぐに行動に起こすので、完全に台風の目となる人間である。
一言で言うとトラブルメーカーだ。
クリスチャンじゃない人よりも、ずっと罪人の様に見えるタイプだ。
しかし私は許されている。
何故なら神の恵を受けているからだ。
ずるいよな?
そう。ずるい。
神から一方的に恵を受けている。
これが神の愛なのである。
【ルカ7:47】
理想的な信仰生活とは
最後に本題に入ろう。
では結局、我々クリスチャンはどの様な信仰生活を送るべきなのか?
私が思うに、それは『神に感謝をすること』だ。
勿論聖書に精通すること。
福音を伝えること。
教会に毎週いき、奉仕をすること・・・。
これらも素晴らしいことで、行うべきことである。
しかし何かしらの事情でこれらが出来ない人もいる。
その場合でも神に感謝することはできる。
神は我々を無条件に愛してくださり、
無条件に罪を赦し、さらに『義人』にまでしてくれた。
そして我々は神に祈りが聞かれ、叶えられる。
そして永遠の命も与えられている。
我々は一体何者で、こんな寵愛を受けるのだろうか。
私はただ神の恵と愛に感謝します。
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